3月11日にWBC3戦目のチェコ戦で先発登板する佐々木朗希投手です。
12年前の2011年3月11日に当時9歳だった佐々木朗希投手は東北大震災を経験します。
今回は佐々木朗希投手の震災経験について調べてみました。
佐々木朗希投手の3.11にかける想いについても気になるところではないでしょうか。
佐々木朗希投手 震災体験とは⁉

佐々木朗希投手が東北大震災に被災した時は当時9歳で陸前高田市の高田小学校で被災を経験します。
当日は、津波から逃れたものの両親と会えず、兄弟3人だけで、避難所で一夜を過ごします。
翌朝に母の陽子さんと再会しますが、父・功太さん(当時37歳)と祖父母は帰らぬ人となり自宅も流され、母・陽子さんと兄、弟の4人で老人ホームでの生活を余儀なくされます。

父親の功太さんは陸前高田市では知られた人だったそうで、葬儀屋さんに勤務され人生の節目に寄り添う仕事をされていました。
また、人情あふれる働き者として地域の夏祭りでは町内会を率先して盛り上げるなど、佐々木朗希投手にとっては太陽のような存在だったようです。
佐々木朗希投手が野球を始めたきっかけは?
佐々木朗希投手は3歳年上の兄・琉希(りゅうき)さんの影響を受け陸前高田市立高田小学校の3年生の時に高田野球スポーツ少年団で野球を始めます。
野球を始めて以来、兄や父親と一緒に練習に取り組みますが、4年生への進級直前となる2011年3月11日東北大震災に被災します。
佐々木朗希投手は「小学生の時が、人生で一番楽しかった」と友だちと日が暮れるまで野球に没頭されたそうです。
被災後は母・陽子さんの親戚がいる大船渡市に引っ越し大船渡市立猪川小学校へ転向し地元の軟式野球少年団「猪川野球クラブ」に入部して野球を続けます。
震災直後ということもあり、ほとんどの野球グラウンドは仮設住宅が建ち、練習場所の確保もままならない状況だったそうです。
ゴツゴツした石ばかりの河川敷や犬のふんが散らばっている小さな原っぱなどでボールを追い、たまにグラウンドを借りられれば、40~50分ほどの距離もいとわず歩いて通うなど厳しい中ではありましたが、保護者や指導者、支援者の協力を得て野球が続けられる環境だったとのことです。
千葉ロッテマリーンズと縁があった⁉

佐々木朗希投手は猪川小学校6年時の時に、ZOZOマリン(当時QVCマリン)で行われた岩手沿岸被災地域の学童のための「リアスリーグ」第1回大会決勝でプレーをします。
決勝戦ではショートを守りますが、親善試合では投手として登板しZOZOマリンのマウンドを経験します。
現在所属している球団も千葉ロッテマリーンズである為、このころから縁があったのではないでしょうか。
3.11登板にかける佐々木朗希投手の思いは⁉

佐々木朗希投手は3月11日には特別な思いがあります。
プロ入り1年目だった20年3月11日に「(震災を)風化させたくない。これからは発信していかなければならないと感じた」と語った佐々木投手。翌21年3月11日には、こう思いを明かしている。「10年前の僕はたくさんの人から支えられ、勇気や希望をもらいながら頑張ることしかできなかったが、今は違う。勇気や希望を与える立場にある。活躍してそういうことができたら」
<侍ジャパン記者通信>佐々木朗希、発信し続ける3・11 万感胸にWBCマウンドへ(毎日新聞) – Yahoo!ニュース
東北大震災を風化させたくない思いや発信しなければいけない使命感があり、佐々木朗希投手が活躍することで勇気や希望を与えたい気持ちがあるようです。
栗山英樹監督が3.11チェコ戦で先発登板させた理由は?

栗山監督は「3.11」のチェコ戦についての登板については
「いろんな要因を考える中で導かれるというか、そういうのは自然にあった」
と説明しています。
また、ローテーションを決めるにあたり「勝つためにやる。別の意図を持って決めることはしない」と強調し温情ではなく勝ちにこだわった采配をしていることが分かります。
その上で「そういう日に先発するということは野球の神様が朗希に“頑張れ”ってメッセージを送っているんだと思う」と送り出し、試合後は「一球一球、魂を込めている姿が感じられ、ボールを投げるというより思いを届けているように見えた」と感慨深げだった。
【侍ジャパン】栗山英樹監督「野球の神様が朗希に頑張れってメッセージを送ってる」…3・11先発の意味(スポーツ報知) – Yahoo!ニュース